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瞑想中に雑念が止まらない時、それでも失敗ではない理由

瞑想を始めてみた。

呼吸を見ようと思ったのに、気づけば仕事のことを考えている。
昔、人に言われた嫌な言葉を思い出している。
「これで合っているのかな」と心配になってくる。
足が痛い。少し痺れてきた。
眠い。

また呼吸へ戻る。

ところが、しばらくすると別のことを考えている。

そんな時間が続くと、

「自分は集中力がない」
「今日はできなかった」
「雑念を止められないから、瞑想になっていない」

と思うかもしれません。

上級者なら、もっと静かな頭で座っているのだろう。
自分には向いていないのかもしれない。

でも、ここで一つ、瞑想の見方を変えてみます。

雑念が出ないことだけが、瞑想の成功ではありません。

呼吸からそれた。
それていたことに気づいた。
そして戻った。

その一連の動きも、瞑想です。

むしろ、戻る練習をしているのなら、

戻った回数だけ、戻る練習をした

そう考えてもいいのです。

雑念は、どうしてこんなに出てくるのか

仕事の締め切り。
昔の失敗。
明日の予定。
さっき届いたメッセージ。
なぜか急に思い出した学生時代の出来事。

人の頭は、こちらが頼んでいなくても、いろいろなものを連れてきます。

これは、瞑想が下手だから起こることではありません。

脳科学の研究でも、人の注意が一つの対象へ固定されたままではなく、自然に別の思考へ移る「マインドワンダリング」は、ごく普通に起こる現象として研究されています。何もしていないように見える時にも、脳では自己について考えたり、過去や未来を思い浮かべたりすることに関係するネットワークが活動しています。 (PubMed Central (PMC))

さらに、呼吸へ注意を向ける瞑想中の脳活動を調べた研究では、

注意がそれる
→それたことに気づく
→注意を戻す
→再び注意を保つ

という循環が示されています。 (PubMed)

つまり、「それた」という出来事だけを切り取って、

「失敗した」

とする必要はありません。

そのあとに気づいて戻るところまで含めて、瞑想の練習だからです。

少し意外ではないでしょうか。

瞑想を始めたから雑念が増えたのではなく、
今まで気づかず流れていたものが、静かに座ったことで見えるようになっただけなのかもしれません。

雑念の中にいる時と、雑念に気づいた時

雑念の中にいる時、不思議なくらい、それが自分のすべてに感じられることがあります。

腹が立っている時には、怒りが世界の中心になる。
不安な時には、不安な未来がすでに起きた現実のようになる。
嫌な記憶を思い出している時には、何年も前の出来事が、もう一度こちらへ攻撃してきているように感じる。

私自身、以前は雑念をかなり邪魔なものとして見ていました。

よく集中できた日の自分と比べたり、上級者ならもっと静かに座れるのだろうと思ったり。

雑念は、自分の出来を採点する材料になっていました。

でも、少しずつ見え方が変わってきました。

思考や感情が湧いた時、

「これが自分だ」

と思っていたところから、

「あ、自分の中に、こういう思考がある」

と見る瞬間が出てきました。

とても小さな違いです。

けれど、その違いは大きい。

雑念の中に自分がいるような状態から、
雑念が起きていることを観測している側へ、ほんの少し視点が移る。

私は、この感覚を「自動運転から降りる」と言うより、

自動運転そのものを、自分だと思い込んでいたことに気づく

という方が近いように感じています。

思考もある。
感情もある。

でも、それだけが自分の全部ではない。

呼吸へ戻る時に使う感覚は、そこで錨(アンカー)のような役割をします。

鼻を通る空気。
お腹の膨らみ。
身体の拍動。

考えに持っていかれそうになった時、

「ここにも戻れる場所がある」

と確認する。

私にとっては、その錨に少し安心感があります。

過去の出来事へ、もう一度入り直していたことに気づいた時

以前、長く瞑想していた時に、足首が痛くなったことがあります。

私は学生時代、部活動で足首を負傷しました。

当時の顧問は体育教師でしたが、「ひどい捻挫だろう」という判断をそのまま信じました。
実際には骨折していて、処置が遅れました。

大人になってから、トレーナーや柔道整復師などから、その時のケガが現在の足首の弱さや、その後の身体の不調へ影響している可能性を指摘されたことがあります。

瞑想中に足が痛くなった時、その記憶が出てきました。

最初は、ただ痛かった。

ところが、気づけば頭の中では、

「なんでこんなに痛いんだろう」
「あの顧問のせいじゃないか」
「体育教師だったのに」
「なんで自分は鵜呑みにしてしまったんだろう」
「学生だったから、大人を信用しすぎたのか」
「瞑想したくて座っている今まで、あの出来事に邪魔されるのか」

と、どんどん話が続いていました。

足首が痛い。

そこまでは、今この瞬間の事実です。

でも、その事実から始まって、私はいつの間にか何年も前の出来事の中へ入っていました。

いわば、昔のフィルムを眺めるだけではなく、もう一度その動画に出演していたようなものです。

そして、

「自分は、いまイライラし始めているな」

と気づきました。

痛みが消えたわけではありません。

その後、何時間でも楽に座れるようになった、という話でもありません。

過去の出来事が正当化されたわけでもない。

ただ、その瞬間、

「いま起きている痛み」と
「そこから始まった過去の物語」が、

ほんの少し別々に見えました。

過去の出来事を思い出してしまうこと自体は、自分で選べない場合があります。

でも、浮かんだ記憶から始まった物語の中へ、さらに入り込んでいる自分に気づくことはできる時があるのです。

そして私は、その時もう一つ気づきました。

足首の弱さに対して、自分なりに試行錯誤してきたこと。
身体を見てもらうために、人を頼ってきたこと。
痛みと付き合いながら、ここまで身体を使ってきたこと。

そういう今までの事実を、私はほとんど見ていませんでした。

過去の重量感が少し薄くなり、代わりに、

「今ここにいる」という実感の輪郭が、少し濃くなった。

そんな感じでした。

瞑想を終えた時、自分の中に、

「酷なようだけど、選べるんだよ」

という言葉が浮かびました。

誰かの声が聞こえたという意味ではありません。

その時の自分が、ようやく自分に言えた言葉だったのだと思います。

何が起きたかは選べない。
身体に残ったものも、簡単には選べない。
思い出が浮かぶことだって、選べない時がある。

それでも、そのあと何を見続けるか。
どこへ戻るか。

そこには、ほんの少し選べる余地が残っていることがあります。

雑念は、自分ではない。でも、自分と無関係でもない

ここは少しややこしいところです。

雑念を、

「こんなのは自分ではない」

と切り離しすぎるのも、私は少し違うと思っています。

怒りも自分の中から出てきたものです。
嫉妬も、不安も、嫌な記憶も、自分の心に起きたもの。

それ自体を追放しようとすると、また出てきた時に、

「まだいる」
「消したはずなのに」

と戦いが始まりやすくなります。

原始仏教では昔から、欲、苛立ち、眠気、落ち着かなさや後悔など、瞑想を妨げる心の働きが観察されてきました。いわゆる「五蓋」と呼ばれるものです。 (SuttaCentral)

昔の人も、座った瞬間から完全な無だったわけではありません。

いろいろな心の動きが起こる。

そして、それを見る。

そういう実践が、ずっと続けられてきました。

だから雑念は、

自分のすべてではない。
けれど、自分の中に起きたものではある。

そのくらいの距離が、私にはちょうどいいように感じます。

雑念と戦わない。でも、一緒に遊び続けない

「雑念は悪くない」と聞くと、

では、瞑想中に好きなだけ考えごとをしてもいいのか。

という疑問が出てくるかもしれません。

そこは少し違います。

考える時間と、瞑想の時間は別です。

楽しいアイデアが出てくる。
仕事の良い解決策が思いつく。
昔の出来事について考察したくなる。

内容が良いか悪いかは関係ありません。

いま注意を向けようとしている対象からそれて、考えの中へ入っているなら、それは雑念です。

大事なのは、その内容を裁くことではなく、

「あ、いま呼吸から離れて考えていた」

と気づくこと。

そこで原因分析を始めなくていいです。

雑念をはっきり捕まえて睨みつける必要もありません。

ぼんやり、

「いたな」

くらいでいい。

そして、また戻ります。

瞑想中に過去を思い出した時も、そのフィルムの主人公としてもう一度出演するのではなく、

「昔の映像が流れている」

くらいに見てみる。

雑念と戦わない。
でも、雑念と一緒にどこまでも歩いていかない。

その中間くらいです。

戻るための「錨(いかり)」を一つ持っておく

雑念に気づいた時、私はよく呼吸へ戻ります。

使うことが多いのは、

・鼻を空気が通っている場所
・呼吸に合わせて動くお腹
・身体の中で感じる拍動

です。

どれが正しい、という話ではありません。

その時、自分が比較的見つけやすいものを一つ決めます。

「あ、雑念が湧いていた」
「知らないうちに、ちょっと相手をしていたな」

と気づいたら、その錨へ戻る。

鼻なら鼻。

お腹ならお腹。

拍動なら拍動。

またそれる。

また戻る。

それだけです。

注意がそれ、気づき、再び対象へ注意を戻すという動きは、集中瞑想を調べた研究でも実際に一つの循環として扱われています。 (PubMed)

だから、

「また戻ることになった」

ではなく、

「また戻る練習ができた」

と見ることもできます。

しつこい雑念は、森へ返してみる

それでも、どうしても戻りにくい雑念があります。

何度も同じことを思い出す。

呼吸へ戻しても、また出てくる。

そんな時、私は少しイメージを使うことがあります。

雑念を、何か小さな生き物のようにしてみる。

こちらから少し近づく。

追い払わない。

背中やお尻のあたりを、トントンと優しく叩いて、

「もう森へ戻っていいよ」

と返す。

その森は、自分の心です。

雑念を捨てるのではありません。

自分の心から出てきたものを、自分の心へ返してあげる。

よくある瞑想のイメージとして、考えを葉っぱにして川へ流す方法があります。

それが合う人もいます。

ただ、私の場合は、流したものがまた戻ってきた時に、

「さっき流したのに…」

という感じが出てしまいました。

森へ返すなら、また出てきても不思議ではありません。

もともと、そこに住んでいるものだからです。

また来たら、

「ああ、また出てきたね」

と返せばいい。

雑念も、自分の心の一部。

そう考えると、雑念にも、自分にも、少し怒らずに済みました。

もちろん、これは瞑想の決まったやり方ではありません。

イメージが合う人だけ、使ってみてください。

「今日は何もできなかった」は、本当に何もなかったのか

瞑想を終えて、

「今日は何もできなかった」

と思う日もあります。

そんな時、少しだけ言葉を足してみます。

「今日は何もできなかった、と感じた」

どうでしょう。

ほんの少し、意味が変わります。

「雑念ばかりで駄目だった」

ではなく、

「雑念ばかりだった、と気づいた」。

「集中できなかった」

ではなく、

「集中できなかったことを、最後に知った」。

そこにはもう、観察があります。

だから私は、時間を使って自分の心を見たこと自体を、ときどき「心の点検」のように考えます。

今日は静かだった。

今日はうるさかった。

今日は身体が痛かった。

今日は昔のことばかり出てきた。

それを知った。

それだけでも、昨日までは知らなかった今日の自分を一つ見ています。

もちろん、終わったあとに自分を責めてしまう日もあります。

それでも、

「責めていることにも、あとから気づくかもしれない」

くらいの余地を残しておけばいい。

瞑想は、自分を完璧に観察できる人になる試験ではありません。

日常にも、雑念と同じことは起きている

この「気づいて戻る」は、座っている時だけの話ではありません。

寝る前。

一つの心配事から、明日の仕事、その先の失敗、数年前の嫌な経験まで、頭の中で話が広がっている。

途中で、

「いま、ものすごく先まで考えていたな」

と気づく。

怒っている時。

相手の一言から、

「いつもこの人はこうだ」
「きっと自分を軽く見ている」
「前にもこんなことがあった」

と話が膨らんでいる。

怒りそのものは悪くありません。

不当なことをされた時、境界を越えられた時、怒りは大切な情報になることもあります。

ただ、怒りを感じていることと、怒りの中で作られたすべての物語を事実とすることは別です。

「いま自分は、かなり怒っている」

と知る。

そこに、小さな隙間ができます。

焦っている時も。

人と比べている時も。

気づけばSNSを何十分も見ている時も。

「あ、いま持っていかれていた」

と分かる瞬間があります。

そして戻る。

戻る場所は、呼吸だけとは限りません。

目の前の仕事。
足の裏。
いま話している相手。
今日すること。

瞑想で練習していることは、こういう日常の小さな場面へ少しずつ持ち帰ることができます。

1分だけ、「それて、戻る」をやってみる

雑念を止めようとせず、一度だけ戻る経験をしてみます。

座っているなら

お尻が椅子や床へ触れている感覚を見ます。

心の中で、

「圧がある」
「右側が強い」
「温かい」

など、簡単に実況してみます。

立っているなら

足の裏を見ます。

かかと。
足の外側。
指先。

どこへ体重が乗っているかを感じます。

横になっているなら

背中が布団や床へ触れている感覚を見ます。

そして、三呼吸だけ。

鼻先を空気が通る感覚でも、
お腹が膨らんだり縮んだりする感覚でもかまいません。

途中で何か考えていたことに気づいたら、

「あ、手を引っ張られていたな」

と心の中で言ってみる。

そして、もう一度、鼻先やお腹へ戻ります。

またそれてしまっても大丈夫です。

目的は、一分間ずっと集中することではありません。

それていることに一度気づいて、一度戻る。

それができたら、もう練習になっています。

雑念が多いくらいなら、瞑想をやめなくていい

雑念が多い日もあります。

それだけで瞑想を中止する必要はありません。

むしろ、雑念が多い日に、

「今日は頭がうるさいんだな」

と見ることも、実践の一部です。

身体が痛い時には、無理な姿勢を続ける必要はありません。

椅子へ座り直す。
立つ。
足を伸ばす。

身体を傷めながら姿勢を守ることが、瞑想の目的ではありません。

一方、強い不安から過呼吸やパニックの兆候が出そうな場合などは、そこで一旦中止してください。

その場合は、内側へ注意を向け続けるより、目を開けたり、周囲を見たり、必要に応じて専門的な支援につながることを優先してください。

ただ、「今日は雑念が多い」というだけなら、それはやめる理由ではありません。

今日の心が、そういう日だった。

それを見る時間にもできます。

心を黙らせることだけが、瞑想ではない

静かに集中できる時間は、たしかに気持ちがいいです。

私も、集中できた瞑想を嬉しく感じます。

だから、静かな状態を目指すこと自体が悪いわけではありません。

でも、それだけを成功にすると、

雑念が出た日は全部失敗になります。

すると瞑想は、

「静かな心を作れた自分」と
「作れなかった自分」を

採点する時間になってしまいます。

それでは、少しもったいないと思います。

雑念が出た。

気づいた。

戻った。

また出た。

また気づいた。

また戻った。

戻った回数だけ、戻る練習をした。

これが、この記事でいちばん伝えたいことです。

心を完全に黙らせることだけが、瞑想ではありません。

心が動いた時、

「あ、自分はいまここにいたな」

と気づけること。

そして、錨を辿って帰ってくること。

その繰り返しの中で、日常でも、

怒りに持っていかれていた。
過去へ戻っていた。
焦りの中にいた。
人と比べていた。

そんな自分に、少し早く気づくことがあるかもしれません。

雑念が出たから、失敗ではありません。

気づいたなら、そこからもう戻り始めています。

そして戻ったなら、それはちゃんと、

戻る練習をした時間です。

瞑想をもう少し知りたい方へ

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ミズカガミでは、呼吸や身体の感覚に気づき、考えや感情に飲み込まれていることに気づいたら、いまここへ少し戻る瞑想をお伝えしています。

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