「瞑想」と聞いて、どんな姿を思い浮かべるでしょうか。
静かな場所で座り、頭の中を空っぽにする。
雑念を消して、何も考えない状態になる。
心が乱れない、特別な人になる。
そんな印象を持っている方もいるかもしれません。
けれど、少なくともミズカガミでお伝えしている瞑想は、頭を無にすることを目指すものではありません。
呼吸や身体の感覚に気づく。
考えごとをしていたことに気づく。
怒りや不安の中にいたことに気づく。
そして、気づいたところから、いまここへ少し戻る。
何度それても、また戻る。
瞑想とは、その繰り返しを練習する時間です。
瞑想とは、いま起きていることに気づく時間
私たちは、日常の多くの時間を頭の中で過ごしています。
さっきの会話はまずかっただろうか。
明日の仕事は大丈夫だろうか。
あの人は、なぜあんな言い方をしたのだろう。
思い出すと、なんだか腹が立つ。
自分はもっと頑張るべきではないか。
もちろん、考えることは必要です。
問題を整理する。
予定を立てる。
誰かの気持ちを想像する。
考える力があるからこそ、私たちは日々の暮らしを回せています。
ただ、考えの中に長く入り込んでいると、考えていること自体に気づかなくなることがあります。
怒りについて考え続けながら、怒りそのものになっている。
不安な未来を想像しながら、すでに悪いことが起きたように身体がこわばっている。
過去の会話を振り返りながら、もう一度その場にいるように胸が苦しくなる。
瞑想では、その流れを力ずくで止めようとはしません。
「いま、考えていたな」
「嫌な想像の中に入っていたな」
「胸が詰まっているな」
そう気づきます。
気づいたからといって、感情がなくなるわけではありません。
問題がその場で解決するとも限りません。
それでも、考えや感情の真ん中から、ほんの少しだけ違う場所へ移れることがあります。
感情や思考と自分との間に、ひと息ぶんの距離が生まれる。
瞑想は、その小さな距離を育てていく実践でもあります。
無になる必要はありません
瞑想について、よく聞かれるのが、
「何も考えないようにするのですか」
「雑念が出たら失敗ですか」
という疑問です。
結論から言えば、考えや雑念が出てもかまいません。
人の頭には、さまざまなものが浮かびます。
子どものお迎えへの焦り。
今日の夕飯。
昔言われた言葉。
この瞑想はいつ終わるのだろう、という考え。
きちんと集中できているだろうか、という自己採点。
瞑想を始めたからといって、それらが急に消えるわけではありません。
むしろ静かに座ることで、普段どれほど多くのことを考えているかに、初めて気づくこともあります。
目指したいのは、雑念が一切出ない人になることではありません。
雑念に入り込んでいたことに気づき、少しずついまへ戻ってこられるようになること。
それも、瞑想で育てていくものの一つです。
雑念に気づいたら、失敗なのでしょうか
瞑想中、ほとんど呼吸に意識を向けられなかった。
仕事のことばかり考えていた。
過去の出来事を何度も思い出した。
集中できない自分に、イライラまでしてきた。
そんな日は、「今日は瞑想ができなかった」と感じるかもしれません。
けれど、終わったあとに、
「ずっと考えごとをしていたな」
「集中できなくて、イライラしていたな」
と気づいたなら、それは何も見ていなかった時間ではありません。
自分の心に何が起きていたのかを、確かめた時間です。
以前の私も、集中できない瞑想を「うまくできなかった時間」と受け取りそうになることがありました。
けれど、
「いま、イライラし始めているな」
と気づいた時、感情の真ん中から少しだけ外へ出たように感じました。
すると、駄目だと思っていた時間の見え方が変わりました。
集中できなかったことを責めるよりも、時間をつくって心身を見ようとしたこと。
最後に自分の状態へ気づけたこと。
そこまで座っていたこと。
それらも、実践の一部として見られるようになりました。
雑念がなくなったのではありません。
雑念を、すぐに悪いものと決めなくなったのだと思います。
呼吸や身体を見るのは、頭の外にも視点を持つため
気持ちがうまく言葉にならない時があります。
不安なのか。
怒っているのか。
悲しいのか。
ただ疲れているだけなのか。
頭の中で理由を探しても、かえって分からなくなることがあります。
そんな時、身体を見ると、別の角度から今の状態が見えてくる場合があります。
肩に力が入っている。
胸がつかえている。
呼吸が浅い。
太ももが固くなっている。
手が冷たい。
「何を感じているのか」は分からなくても、
「身体で何が起きているのか」なら分かることがあります。
すると、
「自分は緊張しているのかもしれない」
「かなり身構えていたのかもしれない」
と、少しずつ言葉が生まれてくることがあります。
これは、無理に感情へ名前をつける作業ではありません。
頭の中だけで答えを出そうとする流れから、いったん外へ出てみること。
呼吸や身体の感覚は、そのための手がかりになります。
「いまここへ戻る」とは、嫌なことを忘れることではありません
いまここへ戻る、と聞くと、
「過去のことを考えないようにする」
「嫌な感情を手放す」
「前向きになる」
という意味に感じるかもしれません。
けれど、ミズカガミでいう「戻る」は、嫌なものを消すことではありません。
怒りがあるなら、怒りがあることに気づく。
悲しいなら、悲しさがあることに気づく。
過去を思い出しているなら、いま思い出していることに気づく。
そのうえで、呼吸や身体、足元、周囲の音など、現在の自分が触れられるものへ注意を戻します。
嫌な体験が、なかったことになるわけではありません。
ただ、
「私は怒りそのものだ」
「この不安が現実のすべてだ」
という状態から、
「いま私は、怒りを感じている」
「私は、こうなるのではないかと考えている」
という見方へ、少し動けることがあります。
出来事を都合よく解釈するのではありません。
いま自分が、出来事をどのように受け取っているのかという事実にも気づく。
そのことで、現実を見る角度が一つではなくなることがあります。
瞑想は日常のどこで役に立つのでしょうか
瞑想は、座っている時間だけに使うものではありません。
たとえば、寝る前。
考えがまとまらず、頭の中だけが動いている。寝つけないことに苛立つ。
そんな時に、一度だけ息を長く吐いて、胸や足先の感覚を見る。もし、何となく落ち着く感覚があるなら何度か繰り返しても良いでしょう。
仕事や何かの本番前。
焦っている自分を押さえ込むのではなく、呼吸が浅いことや、肩に力が入っていることに気づく。
人間関係で怒りを感じた時。
すぐ言葉を返す前に、
「いま、自分はかなり腹を立てている」
と知る。
人と比べそうになった時。
相手の情報へ飲み込まれる前に、胸のざわつきや焦りへ気づく。
過去の出来事が浮かんだ時。
追い払うのではなく、
「いま思い出して、身体が苦しくなっている」
と見る。
その一つひとつは、小さなことです。
それだけで問題が消えるとは限りません。
それでも、反応だけで次の行動を決める前に、少し選び直す余地が生まれます。
瞑想は、その選択の余地を育てていく練習でもあります。
瞑想を続けると、何が変わるのでしょうか
瞑想をすれば、不安がなくなる。
雑念が消える。
いつも冷静でいられる。
嫌いな人を気にしなくなる。
そのように言い切ることはできません。
瞑想は万能薬ではありません。
医療や治療の代わりになるものでもありません。
一度座っただけで、人生が劇的に変わるわけでもないでしょう。
それでも、続ける中で起こりうる変化はあります。
自分の思考の癖や、いつも同じ方向へ考えやすいことに気づきやすくなる。
身体の緊張を拾いやすくなる。
感情に飲み込まれていることへ、少し早く気づく。
出来事を一つの見方だけで決めつけにくくなる。
反応する前に、ひと呼吸置けることが増える。 これまで見過ごしていた感覚に気づくこともある。
私自身、何かが起きた時に、
「自分がそう考えているだけかもしれない」
と立ち止まることが増えました。
それは、何も信じなくなるということではありません。
現代にあふれる情報にも、苦手な人にも、目の前で起きた出来事にも、すぐ反応して右往左往する前に、本当は何が起きているのかを見ようとする。
その姿勢が、少しずつ育ってきたということです。
立ち止まり続けて、動けなくなるわけではありません。
余計な反応が少し減ることで、必要なことが見えやすくなる。
結果として、一日の動作や選択が、以前より落ち着きながら早くなることもあります。
扉を閉める。
花の水やり。 湯船に入る。
誰かへ返事をする。
今日を終える。
そうした一つひとつの行動を、以前より少し丁寧に扱えることがあります。
怒りや悲しみは、なくさなくていい
私は、怒りを感じた体験や、悲しみが残った出来事を、瞑想ですべて忘れたいとは思っていません。
ただ、それらが自分のすべてではないと知りたい。
つらいことをしてきた相手を、無理に許す必要もありません。
それでも、長く瞑想を続ける中で、怒りや悲しみをもたらした人たちに対して、
「この人も、幸福であってほしい」
と思えることがありました。
相手の行為を肯定したわけではありません。
自分の痛みを小さくしたわけでもありません。
ただ、出来事と、その後も自分が抱え続けていた苦しさが、少しずつ別のものになっていったのだと実感しました。
その時、つらい体験や思い出が、ようやく「過ぎた出来事」に近づいたように感じました。
こうなることを、誰にでも約束はできません。
こう感じるべきだとも思いません。
けれど、感情と戦わずに見つめる時間が、受け取り方を変えることはあります。
出来事そのものは変わらなくても、自分の中での受け取り方が少し変わったのだと思います。
瞑想は宗教的・神秘的なものなのでしょうか
瞑想には、長い歴史があります。
マインドフルネスも、仏教の実践と無関係ではありません。
仏教で説かれてきた「正念」、つまり、いま起きていることへ気づき、できるだけありのままに見ようとする実践は、その大切な背景の一つです。
一方で、仏教には、さまざまな地域、宗派、文化があります。
上座部仏教と、日本で広がってきた仏教にも、教えや実践、儀礼の違いがあります。
そのため、「仏教」や「瞑想」を一つの形だけで説明することはできません。
ミズカガミでは、宗教への勧誘や入信を目的にしていません。
特定の信仰を求めることもありません。
神秘的な体験や、特別な霊性を得ることも目標にしていません。
仏教の中で育まれてきた実践への敬意は持ちながら、日常生活の中で心身を観察する方法としてお伝えしています。
目指すのは、特別な人になることではありません。
忙しい日常の中で、
「いま、自分に何が起きているのだろう」
と気づけること。
そして、その気づきを、一日の中へ一つでも持ち帰ることです。
瞑想がつらい時間になった時は
瞑想は、苦しさに耐える時間ではありません。
座っているうちに、つらい記憶や強い感情が浮かぶこともあります。
身体の痛みや息苦しさが気になることもあります。
そんな時は、
「私は、こんなことを思ったんだな」
「とても悲しいと感じているんだな」
と、自分の中で起きていることを少し違う言葉にしてみる方法もあります。
ただし、苦しさを我慢して続ける必要はありません。
目を開ける。
姿勢を変える。
立ち上がる。
足裏や周囲の音へ意識を向ける。
そこで瞑想を終える。
それも大切な判断です。
パニックの兆候がある時や、自傷・他害への衝動が強まる時、強い記憶や症状に一人で向き合うことが危険な時は、瞑想を中断してください。
その場合は、瞑想だけで何とかしようとせず、医療機関や適切な専門家へ相談することを優先してください。
瞑想を続けることより、自分の安全の方が大切です。
まず一度だけ、少し長く吐いてみる
難しいことをしなくても、瞑想の入口はつくれます。
この記事を読みながら、一度だけ試してみてください。
30秒ほどの小さな瞑想
1.鼻から、息を一度だけ少し長く吐きます。
無理に深く吸わなくてもかまいません。
2.そのまま、胸の感覚を見ます。
詰まっているか、動いているか、よく分からないか。
変えようとせず、少し確認します。
3.太ももの感覚を見ます。
椅子や床へ触れている感じ、服の感触、温かさなどを探します。
4.足先の感覚を見ます。
床へ触れているか、冷たいか、何も感じないかを確かめます。
5.最後に、この記事を読みながら何をしていたかに気づきます。
昔のことを思い出していた。
答えを探していた。
自分にもできるか考えていた。
文章をただ追っていた。
何でもかまいません。
「こんなことを考えていたな」と気づいたら、それを責めずに認めます。
これで終わりです。
うまく集中できたかを、採点しなくて大丈夫です。
気づいたこと自体が、すでに瞑想の一部です。
瞑想は、実践する中で少しずつ分かっていくもの
瞑想は、文章を読めばすべて理解できるものではありません。
実際に座り、呼吸へ戻り、また考えごとへそれて、再び戻る。
その繰り返しの中で、
「今日はこれでよかったのか」
「こんなに雑念があっていいのか」
「自分には合っていないのではないか」
と思うこともあります。
けれど、その迷いに気づいていることも、すでに実践の一部です。
ただ、一人では、そのことを確かめにくい場合があります。
続け方が分からなくなったり、自分の状態に合う方法を探しにくかったりすることもあります。
実際にマインドフルネス瞑想を体験してみたい方は、 〈マインドフルネス瞑想の詳細はこちら〉をご覧ください。
ミズカガミの「緊張と反芻をほどく 4ヶ月の個別伴走」では、呼吸と心身への気づきを通して、いまここへ戻る力を4ヶ月かけて育てていきます。
人の反応が気になる時。
会話後の反省会が止まらない時。
自分の感情に飲み込まれそうな時。 頭の中がうるさくて寝付けない時。
不安や感情をなくすのではなく、飲み込まれていることに気づき、そこから少しずつ受け取り方を選び直す。
一人ひとりの緊張や反芻が起きる場面に合わせて、実践を調整していくオンラインの個別伴走です。
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瞑想は、特別な人だけがするものではありません。
無になる必要もありません。
雑念が出てもかまいません。
それていたことに気づいたら、また戻る。
焦った時。
考えが止まらない時。
胸がざわつく時。
いまここへ戻れる場所を、一つずつ自分の中に育てていく。
ミズカガミでは、瞑想をそのような実践としてお伝えしています。