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嫉妬した自分が嫌になる時

「大きな失敗をすればいいのに」

「一度くらい、不幸な目に遭えばいいのに」

そんなことを考えてしまったあと、自分の心が急に嫌になることがあります。

友人が結婚した。
子どもが生まれた。
楽しそうな家族写真がアイコンになった。

人に好かれている人がいる。
容姿が整っている人がいる。
自分にはない才能を、当たり前のように持っている人がいる。

SNSを開けば、仕事が順調そうな人もいる。
いい車に乗り、きれいな家で暮らし、家族で出かけている人もいる。

それを見た瞬間、

「なんであの人ばかり」
「自分はなんでこんななんだろう」
「あの人だったら、何でもうまくいくんだろうな」
「苦労したことなんてないんじゃないか」

そんな言葉が、頭の中に出てくる。

そして最後に、

こんなことを考える自分は、なんて心が醜く嫌な人間なんだろう。

そこまで一気に進んでしまうことがあります。

嫉妬は、あまり人に見せたい感情ではありません。

怒りなら、理由によっては話せる。
悲しみなら、相談できることもある。

でも、

「あの人が幸せそうなのが嫌なんです」

とは、なかなか言えません。

言葉にした瞬間、自分の中の黒い部分まで相手に見られる気がするからです。

だから、誰にも言わない。

そのかわり、自分の中で何度も相手を見ます。

相手のSNSを開く。
最近どうしているか確認する。
何かうまくいっていないところはないか探す。
叩かれたり炎上していないか期待する。

気づけば、相手の粗を探すために、自分の注意をかなり使っている。

それもまた、苦しいことです。

嫉妬を「いい感情」にしなくていい

最初に、少しはっきり書いておきます。

嫉妬には、嫌なところがあります。

人の不幸を願うことがある。
相手の価値を下げたくなることがある。
本当は知りもしない相手の人生を、

「どうせ苦労していない」
「運が良かっただけ」
「大したことない」

と、自分に都合のいい形に切り取ることもあります。

職場なら、それが陰口や冷たい態度に変わることもある。

実際、職場での嫉妬を扱った研究では、悪意を伴う嫉妬が強い場合、不公平感や敵意、嫉妬した同僚に対する有害な行動傾向が高まりやすいことが報告されています。 (PubMed)

だから、

「嫉妬なんて悪い感情じゃありません」

と、きれいに丸めてしまうのも少し違うと思います。

嫉妬が強くなれば、人を傷つける方向へ進むことはあります。

そしてもう一つ。

人の不幸を願うことに、自分の心が慣れていくこと。

そこには、やはり怖さがあります。

最初は、

「ちょっと失敗すればいいのに」

だったものが、

「あの人さえ落ちれば自分は楽になる」

という考えへ近づいていく。

その間、自分の心はずっと相手を向いています。

相手が何を買ったか。
誰といるか。
評価されたか。
失敗したか。

自分の時間なのに、相手の人生の監視に使っています。

そう考えると、嫉妬の危うさは、

「性格が悪くなるから」

だけではありません。

自分の心の自由を、少しずつ相手に渡してしまうこと。

そこにもあるのだと思います。

嫉妬には、少なくとも二つの向きがある

心理学では、嫉妬や羨望について、

「自分もそこへ近づきたい」

という方向と、

「相手にそこから落ちてほしい」

という方向を分けて研究することがあります。

英語では、前者を benign envy、後者を malicious envy と表現する研究があります。

日本語にすると、前者は「羨望」、後者は「悪意を伴う嫉妬」に近いでしょうか。

たとえば、

(この場合の良性)「あの人、仕事ですごく評価されてる。悔しい。自分もそこまで行きたい」

と、

(この場合の悪性)「あの人だけ評価されるなんておかしい。失敗すればいい」

では、胸のざわつきは似ていても、そのあと向かう場所が違います。

2024年に発表された若い女性167人を14日間追った日誌研究でも、良性と悪性の嫉妬では、日々の主観的ウェルビーイング(心身も環境も満たされている状態)との関連が反対方向に現れました。 (PubMed)

ただ、実際の心はそんなにきれいには分かれません。

「羨ましい。自分も頑張ろう」

だけの日もあれば、

「羨ましい。でも腹も立つ」

という日もあります。

だから、自分の感情へラベルを貼って、

「これは良性」
「これは悪性」

と分類する必要はありません。

大切なのは、

その感情が、自分をどちらへ運ぼうとしているか。

少しだけ見ることです。

相手の人生は、「点」でしか見えていない

嫉妬している時、相手の人生は不思議なくらい単純に見えます。

結婚している。
子どもがいる。
家がきれい。
車が大きい。
高そうなベビー用品を使っている。
子どもはいくつも習い事をしている。
夫婦とも身なりが整っている。

そこから、

「経済的に余裕があるんだろうな」
「悩みなんて少ないんだろうな」

と思う。

今の生活の中で、お金の問題が切実なら、そう見えるのも無理はありません。

食費。
光熱費。
車の維持費。
教育費。
住宅費。

毎月の生活そのものに頭を使っている時、余裕がありそうな家庭へ目が行く。

それ自体は不思議ではありません。

ただ、そこで見ているものは、ほとんどの場合、

その人の人生の「結果の一点」です。

そこへ至る過程は見えません。

何を諦めたのか。
誰に助けられたのか。
どんな失敗をしたのか。
夫婦で何を話したのか。
実際の家計がどうなのか。

そんなことは分かりません。

SNSなら、なおさらです。

SNSには、投稿されたものしかありません。

しかも、私たちが何を長く見たか、何に反応したかによって、似た情報が繰り返し表示される仕組みがあります。

すると、

「世の中はみんな楽しそう」
「自分だけ何も持っていない」

という感覚が、実際以上に濃くなることがあります。

もちろん「SNSを見ると必ず不幸になる」

ほど単純ではありません。

ただ、切り取られた他人の一点と、自分の生活全部を比べていることには、気づいておいた方がいいと思います

それは、かなり不利な勝負だからです。

容姿に嫉妬した時、「直す」前に一度だけ考えてみる

容姿の比較は、少し扱いが難しいものです。

顔。
体型。
肌。
髪。
身長。

「自分もあの顔だったら」
「あの体型なら人生が違ったかもしれない」

と思うことがあります。

美容医療や整形を選ぶこと自体を、ここで否定するつもりはありません。

自分で考え、納得して選ぶ人もいます。

ただ、比較で胸がいっぱいになっている最中に、

「この身体のままでは駄目だ」

という結論まで一気に進む必要はないと思います。

SNS上の画像を見る行動、外見比較、身体への不満、美容施術への受容の関連は研究されています。

若者を対象にした研究では、美容施術を受けたインフルエンサーをフォローすることや、写真加工フィルターの使用頻度などと、美容施術への受容や意向との関連も報告されています。

だから、

「みんなやっている」
「このままでは足りない」

という感覚自体が、いま見ている環境の影響を受けていないか。

そこは一度確かめてもいいと思います。

鏡の前にいるのは自分です。

SNSの向こう側にいる人ではありません。

変えるにしても、変えないにしても、
比較に急かされて決めなくていいのではないでしょうか。

「あの人の何が刺さったんだろう」

嫉妬した時、

「嫉妬しちゃ駄目だ」

と考えるより先に、一つだけ聞いてみます。

あの人の、何が刺さったんだろう。

かなり具体的でいいです。

スタイルがいい。
人に好かれている。
お金がありそう。
家庭が楽しそう。
仕事が順調そう。
自信がありそう。

ここでは、きれいな答えを出さなくていいです。

「金がありそうだから」

でもいい。

「モテそうだから」

でもいい。

「自分より幸せそうだから」

でもいいです。

一度、解像度を上げます。

相手そのものが欲しいわけではないはずです。

その人の何かに、こちらの注意が引っかかっている。

その場所を見つけます。

ただし、ここでもう一歩あります。

それを突然手に入れたら、本当に幸せでしょうか

嫉妬した時に、

「それはあなたの本当の望みですよ」

とすぐ結論づけるのも、私は少し危ないと思います。

嫉妬した対象が、そのまま理想の自分とは限らないからです。

そこで、もう一つ質問します。

その人が持っているものを、明日の朝、自分が突然持っていたら、本当に幸せでしょうか。

相手と同じ収入。

相手と同じ顔。

相手と同じ家庭。

相手と同じ仕事。

相手と同じ人気。

一瞬は嬉しいかもしれません。

では、そのあとも欲しいでしょうか。

たとえば本当に欲しかったのは、

お金そのものではなく、
毎月の支払いを怖がらなくていい安心かもしれない。

人気者になることではなく、
誰かと自然に話せる自信かもしれない。

結婚そのものではなく、
帰った時に誰かがいる生活かもしれない。

容姿そのものではなく、
鏡を見るたび自分を否定しなくて済む感覚かもしれない。

嫉妬は、望みの場所を教えてくれることがあります。

ただし、それは望みの物の地図というより、

「この辺りに何かある」と鳴るセンサーくらいに考えた方がいいと思います。

正確な目的地までは決して教えてくれません。

だから、自分で確かめます。

自分の人生を小さくしているのは、相手ではないこともある

嫉妬している時、

相手の人生は大きく見えて、
自分のこれまでは急に小さく見えます。

「あの人はここまで来た」
「自分は何もない」

でも、その大小は、比較を始めたから生まれたものでもあります。

昨日までは普通に生きていた。

仕事をしていた。
家へ帰った。
食事をした。
人と関わった。
なんとか一日を終えた。

ところが、誰か一人を見た瞬間、それらが全部、

「大したことのない人生」

に見えてしまう。

不思議なことです。

相手がこちらの人生を縮めたわけではありません。

比較の物差しを一本置いたことで、自分が突然小さく見えただけかもしれない。

そう考えると、

「自分には何もない」

も、事実ではなくなってきます。

少なくとも、もう少し調べる必要がある言葉になります。

嫉妬している自分を嫌っても、得をしない

ここで、

「そんな自分も素敵です」

とは言いません。

人の不幸を願っている自分を見て、

「最高だね」

とは思わなくていいです。

嫌なものは、嫌でいいです。

ただ、

嫉妬している自分を嫌い続けても、嫉妬の中身は見えません。

むしろ、

嫉妬

自己嫌悪

さらに自分が嫌になる

また他人がよく見える

という循環へ入りやすくなります。

18,000人を追跡した2018年の研究では、強い嫉妬は、その後の低いメンタルヘルスやウェルビーイングを予測しました。また、この研究では「嫉妬が後の経済的成功を促す」という結果も確認されませんでした。 (PubMed)

つまり、嫉妬を燃料として大切に抱え続けても得られるものが無いため、必要の無いモノと言えるのです。

そして、自分を罰する必要もありません。

見る。

中身を確かめる。

気分が悪いなら、そこから動く。

その方がまだ実用的です。

昔から、嫉妬は「人との間」を狭くするものとして見られてきた

ここで少し、仏教の話をします。

原始仏教の経典には、

嫉(しつ)
慳(けん)

という心の働きが出てきます。

嫉は、他者の成功や幸福を喜べず、自分にないものを持つ人への怒りの心。
慳は、自分が持っているものを惜しみ、他者と喜びを分かち合いたくないケチ心です。

また、パーリ経典では、人や神々が、

「敵意なく、争わずに生きたい」

と思っているのに、なぜ実際には敵意や争いが起きるのか、という問いが出ます。

そこで嫉妬と物惜しみが、人を縛るものの一つとして語られています。

これを、

「嫉妬する人は悪い」

という話として読む必要はないと思います。

むしろ、

平和でいたいと思っている自分と、人の不幸を願う自分が、同じ心の中にいる。

その矛盾は、二千年以上前から観察されていた。

そう考える方が、私はしっくりきます。

でも、嫉妬などは「心の汚れ」として挙げられます。

ただ、そこではまず、

「それが心の中にある(起きる)と知る」

ということから始まります。

なかったことにしない。

見つける。

そこから手放していく。

これは、瞑想で雑念を見てきた時と少し似ていると思います。

「相手が不幸になればいい」から、どこへ戻るか

原始仏教には、

随喜(ずいき)

と呼ばれる実践があります。

他者の幸福や善いことを喜ぶ心です。

嫉妬とは、かなり反対側にあります。

ただし、

「あの人が憎い」
「失敗すればいい」

と思っている真っ最中に、

「さあ、相手の幸せを喜びましょう」

と言われても、難しいものがあります。

だから、最初からそこへ行かなくていいと思います。

まず、

「自分はいま、この人の不幸を願うほど苦しくなっている」

と知る。

そのうえで、

「この人を見続けることで、自分は何を得ているんだろう」

と考えてみる。

もしかすると、何も得ていない。

ただ胸を痛くして、
呼吸を浅くして、
注意を相手へ渡しているだけかもしれない。

なら、一度戻ります。

相手から。

自分へ。

スマホを置いて、理想の自分から今を見てみる

嫉妬が強い時は、SNSを一度閉じてください。

できれば、スマホを少し遠くに置きます。

そして紙でもメモでもいいので、

「理想の自分」

を書いてみます。

収入でもいい。
仕事でもいい。
人間関係でもいい。

ただし、

「あの人になる」

ではなく、

「自分はどう在りたいか」

を書きます。

そのあと、少し変わったことをします。

未来の理想の自分が、今の自分を見ていると想像します。

そして、

今の自分の中で、一つだけ褒めてくれそうなところを書く。

まだ何も成し遂げていなくてもいいのです。

諦めずに考えている。
働いている。
失敗してもまだ動こうとしている。
誰かの幸せを憎み切れず、こんな自分でいいのかと迷っている。

何か一つ。

これは、無理に自己肯定するためではありません。

「相手に比べて足りない自分」

という視点から一度離れて、

自分が行きたい方向から、現在地を見るためです。

すると、

「自分は駄目だ」

だったものが、

「ここが理想の自分とは少し違う」

という違和感へ変わることがあります。

自己否定と違和感は、少し違います。

自己否定は、自分全体を止めてしまいやすいです。

違和感なら、

「じゃあ、どうする?」

へ進めます。

職場の嫉妬は、個人の性格だけの問題ではない

嫉妬は、家庭やSNSだけでなく、職場でも起こります。

昇進。
評価。
給与。
上司からの期待。
成果。

限られたものを人同士で比べる環境では、嫉妬が生まれやすくなります。

「社員同士の性格が悪い」

だけでは済まないこともあります。

誰が何で評価されているのか分からない。
成果の配分に納得できない。
いつも一部の人だけが認められる。

そうした環境が続けば、人の感情にも影響します。

だから企業や組織にとっても、嫉妬は単なる個人的な感情ではありません。

評価の透明性や、対話、人間関係、心理的な余裕まで含めて考える余地があります。

ミズカガミでは、個人の緊張や反芻だけでなく、働く人同士の関係や、支える側の心身についても、少しずつ扱っていきたいと考えています。

職場や組織の中で、瞑想やマインドフルネスを取り入れた時間について相談したい場合は、お問い合わせください。

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嫉妬している自分を、好きにならなくてもいい

嫉妬した自分を、好きになる必要はありません。

人の不幸を願う自分に、

「これも私らしさ」

と胸を張らなくてもいいです。

ただ、

嫌って終わる必要もありません。

嫉妬した。

胸が痛い。

呼吸が浅くなった。

相手を見に行った。

粗を探した。

そこまで気づいたなら、

次は少しだけ問いを変えてみます。

「あの人の、何が刺さった?」

そして、

「それを突然、自分が持ったら、本当に幸せ?」

そこからです。

欲しいものが見えるかもしれない。

実は欲しくなかった、と分かるかもしれません。

相手への嫉妬の奥に、

自分が怖くて踏み出せなかった一歩が見つかることもあります。

見つからないこともあります。

それでも、相手の人生から自分の人生へ視線が戻ります。

嫉妬の中にいる時、世界には二人しかいないように感じることがあります。

相手と、自分。

しかも相手は眩しく、こちらは暗い。

でも、本当はそんなに単純ではありません。

相手には相手の過程がある。

自分には自分の過程がある。

今日までの時間は、誰かの結果を見たくらいで小さくなるものではありません。

嫉妬は、ときどき胸を締め付けます。

目の前の人を必要以上に眩しくし、
その光のぶんだけ、自分の足元を暗く見せます。

でも、光の強さだけを見ていると、そこに至るまでにあったものは見えません。

そして影ばかり見ていると、自分が今どこに立っているのかも分からなくなります。

だから、一度だけ、自分へ戻る。

嫉妬している自分を罰するためではなく、

自分は、本当はどこへ行きたいのかを確かめるために。

その答えは、相手の人生の中ではなく、

常に自分の側に残っています。

嫉妬や比較から、自分へ少し戻りたい時に

人と比べたあと、頭の中で相手のことが離れなくなる時には、呼吸や身体へ注意を戻し、自分の中で何が起きているのかを見ることも一つの方法です。

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