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許せない人がいる時

「どうして、あんなことをしたあの人だけ普通に生きているんだろう」

そう思ったことがある人は、たぶん少なくありません。

自分を傷つけた人。
理不尽なことをしてきた人。
立場を使って、こちらの尊厳を削った人。
謝らなかった人。
何事もなかったように暮らしている人。

もう会わない人かもしれません。
今も関わらざるを得ない人かもしれません。
亡くなっていて、もう対話のしようがない人かもしれません。

それでも、その人がふと自分の中に戻ってくることがあります。

胸が締めつけられる。
呼吸が浅くなる。
身体が重くなる。
当時の言葉や場面が、今起きているように蘇る。

そして、

「自分の時間を返してほしい」

と思う。

「苦しみとして、相手にも返ってきてほしい」

と思う。

「どうして、ああいうことが許される世の中なんだ」

と思う。

その思いは、とても強いです。

しかも、厄介なのは、相手が今そこにいなくても続くことです。

もう何年も会っていない。
相手は今ごろ、普通に楽しく生活している。

それでも、自分の中では現在形のまま続いている。

ここで、よく言われる言葉があります。

「許しましょう」

でも、私は、この言葉を決して簡単には使いたくありません。

許すことと、和解することは同じではない

まず分けておきたいことがあります。

許すことと、和解することは同じではありません。

和解には、少なくとも何らかの相互性があります。

対話する。
理解しようとする。
謝罪する。
納得できるところまで話す。
関係を再構築する。

でも、現実にはそんなことができない場合が多々あります。

もう会う必要のない相手もいる。
距離を取った方が安全な相手もいる。
反省していない人もいる。
対話そのものが成立しない人もいる。

だから、

「心を楽にしたいなら、相手と向き合って和解しなければならない」

とは限りません。

心理学の世界でも、forgiveness(許し)と reconciliation(和解)は区別されます。
許しは必ずしも、相手と関係を戻すことや、相手の行為を正当化することを意味しません。

つまり、

相手とまた親しくなる必要はない。
連絡を取る必要もない。
相手を信頼し直す必要もない。

それでも、自分の中で何かが変わっていくことはあり得ます。

この違いは、とても大きいと思います。

「許したかどうか」を考えているうちは、まだ相手が中心にいる

少し意地悪な言い方かもしれません。

でも、

「私はあの人を許したのだろうか」

と何度も考えている時、まだ判断軸の中心には相手がいます。

許した。
許していない。

好き。
嫌い。

正しい。
間違っている。

その二極の間で、自分の心がずっと揺れています。

しかも、

「許した方が立派」
「許せないのは未熟」

という空気まで乗ってくると、被害を受けた側がさらに苦しくなります。

傷ついた。
怒っている。
まだ許せない。

それだけでも大変なのに、

「このままでは幸せになれないのでは」

という二重の苦しさが増える。

でも、本当にそうでしょうか。

許すか許さないかを決めなくても、
自分の中で出来事が終わっていくことはあります。

相手との関係が戻らなくても、
自分の人生が前へ進むことはあります。

むしろ、ある時ふと、

「許したかどうかなんて、もうどうでもよくなっていた」

というところまで行くことがあります。

それは、投げやりではありません。

問題の比重が、自然に下がった。

そんな感じに近いことです。

思い出すことと、もう一度その場を体験することは違う

嫌な記憶は、勝手に浮かぶことがあります。

人の脳は、感情の強い出来事を記憶しやすく、危険や脅威に関係する記憶ほど強く残ることがあります。

だから、

「また思い出してしまった」

こと自体を、自分の失敗だと思う必要はありません。

でも、そこから先には、少し違いがあります。

思い出した。

そして、

「なんであの人はあんなことをしたんだ」
「今ごろ平気な顔をしている」
「自分はあの時もっとこうすればよかった」
「絶対にあちらが間違っていたと証明したい」

と、物語が続いていく。

気づけば、何十分もその人と頭の中で話している。

52投稿目でも書きましたが、これは昔のフィルムを見るというより、もう一度その動画に出演しているような状態に近いことです。

思い出は過去、過ぎた出来事です。

でも、そのたびに自分が出演すれば、感情はありありと今のものとして蘇ります。

怒りが増える。
悔しさが増える。
悲しみが増える。

そして、少しずつ物語も大きくなります。

だから大切なのは、

「思い出さないこと」

ではありません。

思い出した時に、いま自分の中で何が続いているかを見ること

そこが大切です。

怒りは、自分を守るために必要だったこともある

怒りは、ただの悪者ではありません。

危険を察知する。
境界を越えられたことを知らせる。
理不尽なことに対して「おかしい」と感じる。

そういう働きもあります。

もし怒りがまったくなければ、
危険な相手から距離を取れないかもしれない。
自分の尊厳が傷つけられても、そのまま受け入れてしまうかもしれない。

だから、怒りには役割があります。

ただ、役割を終えたあともずっと居座ると、話が変わってきます。

怒りは、とてつもなく強いエネルギーです。
皆さんも、体験して知っておられることでしょう。

そしてその時、

視野を狭くします。
相手を一色で塗ります。
良いものを見つける力を奪うことがあります。

怒りが続いている時、自分では正しさを守っているつもりでも、実際には世界の見え方そのものが怒りに染まっていることがあります。

原始仏教では、怒りや憎しみに近い心の働きを

瞋(しん)

と呼びます。

瞋は、ただ「怒るな」と道徳的に禁止されるものというより、心を覆って物事の見え方を狭くするものとしても扱われます。

怒りに支配されている時は、相手だけでなく、自分の生活の中にある別のものまで見えなくなりやすいです。

その意味で、怒りは自分を守ることもあるけれど、長く抱え続けると、自分の心まで染め上げてしまいます。

その両方があるのです。

「相手が間違っていた」と確認し続ける時間

私自身、昔、職場で必要以上に強い体罰や、尊厳を傷つけるような言葉を受け続けた経験があります。

人が見ていない時に、特定の一人に向けて。

毅然とした厳しさが必要な職種もある。
強い指導が必要な場面もある。

それ自体はよく理解しています。

でも、その範囲を超えていました。

暴力の強さの問題ではありません。

立場を使って、感情をぶつけること。

そこに違和感がありました。

当時は、強く怒っていました。

法的に争ってでも、

「それは間違っていた」

と必ず知らしめたいと思ったこともあります。

そして何度も、

「自分の倫理観は間違っていない」

と自分の中で確認していました。
またある時は、中立の立場の人間にありのまま話して、「やはり間違っていない」と臨戦態勢をとりつつもありました。

でも、ある時から少しずつ変わってきました。

相手が間違っていたかどうかを、何度も証明し直さなくても、
自分の倫理観はもう自分の中に揺らぎなくある。

そう感じ始めたからです。

そして、少し不思議な感覚も出てきました。

嫌味ではなく、

「可哀想だな」

と思うことがありました。

相手を免罪するのではなく、その心の構造を見る

ここは誤解されたくないところです。

相手が可哀想だと思ったからといって、されたことが正しくなるわけではありません。

自分の痛みが小さくなるわけでもありません。

でも、

立場を使って人を傷つける。
正しさを、暴言や暴力で表現する。

その心の構造に気づかないまま生き続けること。

とてつもない怒りのエネルギーを抱えたまま生きる、それを少し恐ろしく感じました。

人に評価されている。
第一線で活躍している。
多くの人に必要とされている。

そういう人でも、特定の場面では誰かを深く傷つけることがあります。

その二つは両立します。

立派な人だから、傷つけていない。
誰かを傷つけたから、全部が悪い人。

そう単純ではありません。

むしろ、

社会では評価されながら、自分の心の癖には気づいていない

こともある。

そう考えると、相手を単純な悪役として固定する必要も少しずつなくなっていきました。

それは相手を許したというより、
自分の視野が、相手だけを見なくなったという方が近いです。

慈しみは、相手を好きになることではない

原始仏教には、

慈(じ)悲(ひ)

という心のあり方があります。

よく「慈しみ」「慈愛」と訳されます。

でも、これは、

「嫌いな人も好きになりましょう」

という話ではありません。

相手と親しくする必要もありません。

もっと静かなものです。

たとえば、

「この人がこれ以上、誰かを傷つけるような心の状態で生きなくて済めばいい」

そう願う。

それだけでもいいと思います。

自分を傷つけた人に対して、

「幸せになってほしい」

と思うのは、最初はかなり難しいです。

でも、その「幸せ」は、

豪華な暮らしをしてほしい、という意味ではありません。

自分の怒りや未熟さで、他人を傷つけずに済むような心でいてほしい。

そういう意味なら、少し違って見えます。

そして不思議なことに、そう思える瞬間が出てくると、

相手の不幸を願っていた時より、自分の心が静かになります。

相手のためというより、
自分の心がそこから少し自由になった。

その感覚に近いと思います。

許すより先に、「もう中心に置かない」

相手が今も、自分の人生の中心にいるように感じることがあります。

でも、実際にはその人は今ここにいません。

自分と同じ場所にもいない。
同じ時間を生きてもいない。

それでも、自分の中では中心にいる。

不思議です。

相手が中心にいるというより、

自分が相手を中心に置き続けている

と言った方が近いのかもしれません。

もちろん、簡単な話ではありません。

「じゃあ外せばいい」

で外せるものなら苦労しません。

でも、

「もしかすると、自分にも選べる部分がある」

という片鱗に気づくだけでも、見え方が反転することがあります。

誰のせいか。

相手が悪いのか。
自分が悪いのか。

そこを考え続けるより、

今、自分はどう生きるか。どう在りたいか。

その方向へ注意を戻します。

責任を曖昧にするわけではありません。

相手がしたことは、相手がしたことです。

ただ、その責任を確認し続けることと、
自分の今日を生きることは全くの別です。

「誰のせいでもない」は、責任を消す言葉ではない

この言葉も、慎重に使いたいです。

「誰のせいでもない」

と言うと、

加害も被害も全部同じ。
どちらも悪くない。

そんな意味に聞こえるかもしれません。

でも、ここで言いたいのはそういうことではありません。

明らかに人を傷つけた人には、その人の責任があります。

突然の性被害。
児童虐待。
暴力。
重大なハラスメント。

そういうものまで、

「誰のせいでもない」

と一言で包むのは、あまりにも残酷です。

ここでの意味は、

誰のせいかを考え続けることが、自分の今後を決める必要はない

ということです。

少しわかりにくいですが、
相手に責任がある。

その事実はそのまま。

でも、

これからどう生きるか。
何を見るか。
何に時間を使うか。

そこには、自分の選択が残っています。

だから、

「誰のせいでもない」

より、

「これから先は、誰のせいかだけで生きなくていい」

くらいの方が、私はしっくりきます。

和解しなくても、終わっていくことはある

和解しないまま終わる関係があります。

謝罪されないまま終わる出来事もあります。

納得できないまま時間が過ぎることもある。

それでも、

自分の中で、終わっていくことはあります。

忘れるわけではありません。

思い出した時、

「ああ、あったな」

とフィルムを見る。

でも、そのたびに出演しなくなる。

そうなってくると、出来事は過去の一コマになります。

原始仏教では、

諸行無常(しょぎょうむじょう)

という言葉があります。

あらゆるものは変化し続ける。

怒りも。
悲しみも。
記憶の質感も。

出来事そのものは変わらなくても、
それを受け取る自分は変わっていきます。

何年も前は、思い出すだけで胸が苦しかった。

今は、少し距離がある。

さらに先では、

「そんなこともあった」

と静かに思えるかもしれない。

この変化を、

「許した」

と呼ぶ人もいるでしょう。

でも、私は必ずしもそう呼ばなくていいと思います。

ただ、問題が問題ではなくなった。

それだけでも十分です。

赦しは、ゴールではなく途中にあるものかもしれない

赦す。

赦さない。

その二つだけで考えると、世界は急に狭くなります。

赦せた。
赦せない。

正しい。
間違っている。

でも、実際の心はもっと曖昧です。

怒っているのに、相手の幸せを願うこともある。

忘れていないのに、もう苦しくないこともある。

嫌いではあるけれど、もう興味がないこともある。

あるいは、

「感謝しているのかもしれない」

とふと思うこともある。

それは、相手がしたことに感謝しているのではありません。

そこから何かを知った自分に、あとから気づく。

そのくらいの意味です。

だから、赦しという言葉を最終地点に置く必要はないと思います。

赦しは、途中で通る一つの感覚かもしれません。

そして、その先には、

赦したかどうかすら考えなくなる場所

があるのかもしれません。

どうしても苦しい時は、5年後の自分から今を見てみる

今、どうしても相手のことが頭から離れない時。

少しだけ時間軸を動かしてみます。

5年後の自分を想像します。

その自分が、今の自分を見ています。

そして、問いかけます。

「この問題を思い出すたびに、今と同じ強さで心を痛め続けていたいだろうか」

はいでもいい。

いいえでもいい。

答えを急がなくていいです。

大事なのは、

「この感情の大きさは、永遠に同じではないかもしれない」

という可能性を見ること。

選べるかもしれない。

少しずつ。

その感覚だけでも、十分です。

職場や教育現場では、「許す力」を個人に押しつけない

職場や教育現場では、この問題は特に慎重に扱う必要があります。

ハラスメント。
立場を利用した威圧。
継続的な侮辱。
過度な叱責。

こうした問題を、

「お互い様」
「許すことも大事」
「大人なんだから」

で終わらせるべきではありません。

個人の精神的な成長と、組織の責任は別です。

被害を受けた側が心の整理をすることと、
組織が再発防止をすることは、同時に必要です。

企業や教育現場では、

相談経路が機能しているか。
評価や権限が一部の人に偏っていないか。
指導という名目で、尊厳を傷つける行為が放置されていないか。

そこを見る必要があります。

人間関係の問題を、個人の我慢や許しだけで解決しようとすると、同じことが延々と繰り返されます。

ミズカガミでは、個人の緊張や反芻だけでなく、職場や教育現場で人を支える側の心身についても、今後少しずつ扱っていきます。

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許せないままでも、自分の人生は進める

許せない人がいる。

そのこと自体を、無理に変える必要はありません。

でも、

その人を人生の中心に置き続ける必要もありません。

相手の責任を消さなくていい。

和解しなくていい。

忘れなくていい。

ただ、

思い出すたびに出演しない。

相手の問題と、自分の今を少しずつ分ける。

そして、

「これからどう生きるか」

を自分へ戻していく。

ある日、

相手を思い出しても、前ほど胸が痛まなくなることがあります。

さらに時間が経つと、

「もう、問題じゃないな」

と思うかもしれません。

その時、

許したのか。

許していないのか。

そんなことは、もうそれほど重要ではありません。

ここまで続いてきた道が、同じ先へ続かないこともある。

流れていくものを、すべてつかまえておかなくてもいい。

相手と和解しなくても、
自分の中では終わっていくことがあります。

そして、その終わりは、

誰かが与えてくれるものではありません。

自分の人生を、少しずつ自分の側へ戻していく中で訪れるものです。

許せない気持ちに飲まれそうな時に

思い出が何度も浮かび、怒りや悔しさの中へ戻ってしまう時には、呼吸や身体感覚へ注意を戻し、今の自分に何が起きているかを見ることも一つの方法です。

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